平成21年5月18日
 5月15日に日本共産党富山地区委員長名の僕宛の抗議文が届けられた。僕には共産党のみなさんから抗議を受ける覚えがないので、何かの間違いだと受け止めて開封しないで預かっている。早く間違いに気付いて取り戻しにきて欲しい。
 翌日の新聞報道によれば、4月28日付けで僕のホームページに書いたある議員を批判する僕の文章に対する抗議らしい。しかしその文章で僕が批判したのは当該議員の行動なのであって、共産党のみなさんを批判した訳ではない。もとより、意見の相違はあっても、公党たる日本共産党に対して軽々に批判する思いは持っていない。したがって日本共産党富山地区委員長から文書で抗議されることはまことに意外であり、理由が分からないでいる。
 おそらく僕の批判文章中の「ある共○党の候補者」という対象者の特定表現が気に障ったのだろう。しかし、この意味するところは「ある候補者」なのであって、決して「共○党」を批判の対象としているわけではない。例えて言えば、「ある清水町の住民」とか「ある2年3組の生徒」などの表現のように、共○党という言葉は候補者という言葉にかかる修飾語なのである。にもかかわらず僕の文章が共産党を批判したものだと受け止めたものだとすると信じられないほどにひねくれた読解力だと言わざるを得ない。「ある自民党の議員」を批判したのに対して自民党が反発することはあるまい。おかしな対応である。
 ひょっとして、「ある共○党の候補者」を批判することは共産党を批判することに他ならないのだ!という理由で抗議されているのだろうか。そうだとしたらあの議員は共産党そのものだということになる。その議員のすべての言動は共産党の支配下にあり、その意向によってのみ行動しているということになりはしないか。議員の言動には個人の意志の反映などは存在せず、個性も自立性も自由意志も持たない、まるで人形のような存在が共産党の議員というものである、ということになるのではないのか。そういうことなら、「ある議員」を批判したことに対して、天下の公党たる日本共産党富山地区委員長が抗議してくることも納得できる。しかし、そんなことがあるかねぇ?
 あるいは次のような理由によって日本共産党富山地区委員長名の抗議に及んだのかも知れない。僕が批判した当該議員が一人で抗議する甲斐性ががなく、保護者に助けてもらったという場合である。僕は個人の議員の選挙公報の内容を批判したのである。したがって当該議員が抗議してくることは当然に予想していた。だから一人で抗議文を送ってこようが、口汚く僕を批判しようが、ある意味、当然であろう。しかし、今回の抗議は日本共産党富山地区委員長と当該議員と、ご丁寧にももう一人、同僚議員も一緒になった、三者の名前での抗議文となっている。おそらく自分に対する批判に対して一人の力で抗議することができなかったのであろう。情けない話だなあ。当該議員は平成7年初当選のはずだからもう14年の議員経験を有している。にもかかわらず、公人としての議員活動の一環を、それも選挙公報という議員の公約に対する批判に対して自らの力で反論できず、同僚や保護者の力を借りて抗議するとはねえ。嘆かわしいとはこういうことだ。
 日本共産党富山地区委員長名で抗議文が届いた理由がどうであれ、少なくとも僕は日本共産党も同富山地区委員会も批判していないにもかかわらず、一方的に抗議文を届けてくる行為はおかしい。こういう行為のことを日本語で「言いがかりをつける」と言う。それでさえもどうかと思うが、側聞するところによれば、この抗議行動について市政記者室に情報提供したそうだから笑ってしまう。こういうことを「恥の上塗り」と言うんじゃなかったっけ。いずれにしても言われなき抗議文は開封されず保存してあるので早く引き取りにきて欲しい。
 最後に当該議員に申し上げたい。しっかりしてよね!と。


平成21年5月15日
 先日、議案に反対票を投じながら、市民に人気の高い施策について自分が実現させましたとでも言うような内容を選挙公報に記載していた議員を揶揄する原稿をこのコーナーに書いた。その後、やたらと趣味の悪いメールが送信されてくる。僕を口汚く乱暴な言葉でののしる内容である。それも尋常な神経では口にできないような悪質なものである。もとより批判された者が腹いせに送信してきているとは思わないが、世の中には程度の悪い手合いがいるものだ。暴力的な体質がDNAに刷り込まれて継承されているということか。
 こんな連中と付き合うことに何の意味もないことは当然である。無視しておけばよいのだ。そうは申せ、送信されてくるメールを削除する作業も面倒なので当分の間HP経由のメール受信を停止することとしたい。ご理解をお願いしたい。
 

平成21年5月11日
 大型連休も終わり、今日から全開モードに切り替えよう。しっかり働かなくてはならない。季節も良いし、気分も良い。体調も良い。後は頭の中を戦闘モードにリセットするだけ。総員突撃と行きますか。

 さて、昨日はボーイスカウトの富山県大会があった。1800人ものスカウトが街に繰り出したのだから、あっちにもこっちにもと少年たちのグループが歩いていて爽やかであった。大会の挨拶でも述べたのだが、今の社会は個人を尊重することが行き過ぎて我が儘を尊重する社会になってしまったと言えなくもないと思う。そういう時代だからこそ年齢を超えたボーイスカウトの部隊の一員となって、相手を思いやることや仲間と助け合うことや規律的な行動を取ることなどを学ぶことの意義は大きいと思う。もっとこの運動が広がることを期待したい。
 
 午後からはあるライオンズクラブの40周年記念の行事に出た。その懇親会のパフォーマンスとしてある女性の歌唱に触れたのだが、かなりレベルの高いものであった。そこまでは良かったのだが、途中であれっと思わされてしまった。この女性はオーストラリアに住んでいたとかで英語で歌っていたのだけれとも、赤い鳥の「翼をください」やイルカの「なごり雪」を英語で聞かされて違和感を覚えたのである。外国人に日本の楽曲を紹介するために英訳して歌うことの意味はもとより分かる。その結果として、原曲にない持ち味が生まれることもあるだろう。演者の狙いはそこにあるのだとも思う。それでも何か変だなあと思ってしまうのだ。歌い手が日本人で聴衆も日本人でありながら、日本語の曲を敢えて英訳して歌わなくてもなあと思うのは僕が偏狭だからか。そもそも「翼をください」も「なごり雪」も名曲中の名曲だ。日本語の詩としての歌詞と楽曲が一緒になってこその名曲じゃないのか。「なごり雪」という言葉のニュアンスを英訳して表現することは至難の業だと思うのだが、どうだろう。
 仮に日本人に対して英訳された「奥の細道」を朗詠したとして、原作以上の詩歌的価値を表現できるとは思えない。そんなことを感じた出来事であった。