平成25年9月25日
 毎朝同じジュースを作っている。リンゴ1個、セロリ1本、そしてニンジン1本をそれぞれ適当な大きさに切りジューサーでつぶしてジュースにする。毎日、毎日厭きもせずに作り続けているのだ。僕の朝食はこのジュースにトースト1枚、トマトが1個、そしてヨーグルトが1個となっている。この組み合わせもまた毎日変わることがない。使ったことのある人は分かると思うがジューサーという道具は後片付けがなかなかに面倒なものである。きれいに洗うのに時間も掛かる。それでも面倒がらずに毎日使っているのだ。カミさんが入院した3年まえの9月からずっと続いている。まるで何かに囚われているかのように。意固地になっているとも言えよう。傍目には滑稽に見えるかも知れないが…。カミさんが病室で言った「朝食はせめてジュースだけでも取らなきゃね。」という言葉に囚われているのだ。こうやって片意地を張って生きていくとしますかな。
 さて、開高 健の名言(?)に「明日、世界が滅びるとしても、今日、あなたはリンゴの木を植える。」というのがある。何があろうといたずらに騒がず、今日自分にできることをただ粛々とするだけだという意味であろぅ。僕の場合はさしずめ「明日、世界が滅びるとしても、今日、わたしはリンゴ、セロリ、ニンジンのジュースを作る。」ということになるか。粛々と生きて行くさ。
平成25年9月23日
 来月の市の広報誌に掲載予定のエッセイでも書いたのだが、すごく心にしみる本を読んだので紹介したいと思う。河野裕子・永田和宏共著の「たとえば君」(文藝春秋、2011年)というエッセイ集である。著者の2人は夫婦であり、ともに歌人である。内容はエッセイというよりも歌集と言ったほうが良いくらいに心を打つ短歌であふりれている。
 2人の出会いから始まり、子育ての時期や多忙な日々の歌が続き、妻の発病と再発、そして妻の絶筆と夫の挽歌で閉じられている。病む者と見守る者、逝く者と見送る者、それぞれの思いが込められた歌に心が揺すぶられた。勝手に何首か紹介したい。

あるいは泣いているのかもしれぬ向こうむきにいつまでも鍋を洗いつづけて

あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて

「私が死んだらあなたは風呂で溺死する」そうだろうきっと酒に溺れて

大泣きに泣きたるあとにまだ泣きて泣きつつ包丁を研ぎいたるかな

平然と振る舞うほかはあらざるをその平然をひとは悲しむ

がんばっていたねなんて不意に言うからたまごごはんに落ちているなみだ

亡き妻などとだうして言へやうてのひらが覚えてゐるよきみのてのひら

平成25年9月9日
 昨日のオリンピック招致の決定は快挙であった。快挙だったからこそこれから7年間のわが国の本気度が問われることになる。戦後の復興の道筋に弾みをつけたのが1964年の東京オリンピックであったように、わが国の復活の弾みにしなければならない。満面の笑みで喜ぶ若者たちの映像を見てすがすがしく感じた。若者たちの笑顔を日本愛に繋げなくてはならないと思う。子どもたちの感動に繋げなくてはならないと思う。先の東京オリンピックは僕が小学校6年生の時であった。特に閉会式において国や人種を超えて一緒になって行進していた様子に子供ながらも深い感動を覚えた記憶がある。僕が50年程の間その感動を忘れないでいるように、2020年のオリンピックが子供たちのその後の50年に繋がる感動あふれるものとなるようにしなければならないと思う。わが国の国民総動員で取り組むテーマだと思う。チョット大げさかな?

 さて、このコーナーで毎月の月末に「今月の読書」として書き綴ってきたが、最近たくさんの新刊書をいただくことが多くて悩ましいことになっている。どんなに頑張っても読めない本が積み上がっていくので、恵贈いただいた方に不快な思いを抱かせてしまっているのではないかと心配しているからである。「今月の読書」の欄を見る限りまだ読んでくれていないじゃないかという不快感である。考えてみたら自分の読書実態をあからさまにするのも問題が多い。2月から綴ってきましたが…、ここらで止めることとします。ぜひともお奨めしたい作品に出会ったときにその作品を紹介することはあるかもしれませんが…。悪しからず。