平成21年8月24日
 今年も来春4月採用予定の職員採用試験が行われた。僕は最終の面接に出席し、受験者の意欲や人となりを見ることとしている。大げさに言うと若者が将来を賭けて受験しているのだから、試験する側も誠実でなければならないと自らに銘じている。そうは言っても、緊張でガチガチになっている人にはリラックスさせようと冗談も言うし、受験学校の模範解答を繰り返す人には「もっと本音でかたろうよ」などと水を向けることもある。「まだ若いんだから行政の知識がないのは当たり前。無理して自分を作らないで素のままを出してください。」などと話しかけるのである。まあ、どの人もこちらにすれば自分の子どものような年齢だ。およその性格や人柄は推測がつく。おおむねどの人も輝いている。若さが眩しいというところだ。

 今年は全部で77名の面接をした。そのうちの4名の男性にユニークな共通点があり考えさせられた。その共通点とは、4名ともすでに県外の自治体や政府系の金融機関に就職している人であるという点だ。つまり新卒予定の学生ではなく、それどころか県外の機関にもう何年も勤務している人たちが富山市を受験してきたということだ。あまりプライベートなことを質問することができないものの、いぶかしげな僕らの胸中を察してか彼らのほうから背景を説明してくれた。全員が富山市在住の女性と結婚することが予定されていて、結婚後に富山で暮らすために現在の職場を辞して富山に職を求める必要があり、富山市を受験していたのである。
 僕らは「今の職を辞めるのはもったいなくはないのか?」とか「別居結婚という選択肢はないのか?」などと勝手な質問をしたのだが、彼らの意思は固く、今年がだめでも来年また富山市を再受検するというのであった。
 かって寿退社という言葉があった。(今もあるのかな?)一般的には結婚を期に女性が退社することをさしていたと思う。遠距離に居住するカップルが結婚するに際して男性の側が退職し女性の居住する地において新たに職を求めるという今回のようなケースは例外的だったと思う。寿退社するのはだいたいにおいて女性だったのだ。ところが今回は4名の男性が寿退職を希望してきたということなのだ。
 もちろん当事者が判断すれば良い事だ。どちらの苗字を名乗るのか。どちらの仕事を優先して居住地を決めるのか。2人が話し合って決定すればよいことであり、他人がウンヌンすることではない。それはそうなんだけれども…。僕が若かった頃とはなんとなく違ってきたんだなあと感じてしまうのだ。
 僕が自分の時代の固定観念にとらわれているということだろう。多様な結婚の形態があってもいいことだし、多様な生き方があることは本来的でもある。そういう意味では社会が成熟してきたということとも言える。1人っ子が多いことも作用しているかもしれないなあ。
 いずれにしても、富山にはパートナーを引きつけてしまう魅力溢れる女性が多いということなのだ。愛は強しとは、けだし名言である。
平成21年8月19日
 お盆の休みを利用して、14日から16日までの三日間で野口五郎岳、水晶岳、赤牛岳を縦走してきた。
 あらかじめ山に詳しい知人から、高瀬ダムから烏帽子小屋までのブナ立尾根は北アルプス三大急登の一つだから大変ハードだと聞かされていた。確かに急坂ではあったが歩きはじめでもありなんとか予定したペースで登ることができた。さいわい天気にも恵まれ野口五郎小屋までの初日のコースは疲れはしたものの気持ちよく歩くことができた。それぞれの小屋でトイレ整備補助制度の説明などをさせてもらった。小屋の主人からビールや焼酎をご馳走になりまことにありがたかった。
 2日目は野口五郎小屋から水晶小屋を経由し、水晶岳、赤牛岳を登った後、読売新道を下って奥黒部ヒュッテまでたどるというコースであった。
 3年ぶりに訪ねた水晶小屋は改築されていて、きれいなトイレや風力発電装置などを視察させてもらった。風力発電については許可手続きについて少しばかりお手伝いをしていたので感慨深いものがあった。驚いたのは、ご主人夫婦の5ヶ月になる赤ちゃんが小屋にいたことである。こんなに小さいときから雲上の小屋で暮らしていたら将来はどんなにか逞しい青年になるに違いない。抱かせてもらったところ僕の顔を見ながら「ウー、ウー」と話しかけてくれたのが嬉しかった。相変わらず赤ちゃんが大好きなのである。
 水晶岳の山頂では我が母校である中央大学のワンゲル部の若者たちに出会えた。6泊の日程で上高地から室堂まで縦走すると話してくれたので、お土産は途中で買わずに富山駅で買うようにと薦めておいた。
 初めて登った赤牛岳も大きな山であった。それでも雄大な薬師岳を横目に歩くので気分は最高であった。僕らの縦走はここらあたりまでは本当に順調な足取りであったのだが、問題は赤牛から黒部湖に向かって下りる読売新道にあったのだ。先の知人から読売新道は行かないほうが良いと言われていた意味を痛いほどに実感することとなったのである。途中で何度も転んだのだから痛いほどではなく痛かったというべきか。
 赤牛へのルートはガレ場が多く大きな石を飛び渡りながらの歩行となるので随分と神経を使った。読売新道も最初のうちはガレ場で、最初のうちこそ「ガレ場じゃなく、濡れ場ならいいのにねぇ。」などと冗談も出ていたが、やがてみんなが無口になっていたのだった。そのうちに稜線から東側に崩壊している箇所に出くわした。はっきり言ってかなり危険な場所だと思う。一つ間違えると谷底まで滑落することになろう。どこが管理しているルートなのかは分からないが少なくともロープを張るべきだと思うのだが…。
それでも緊張感を維持しながら僕らは黙々と歩いた。やがて樹林帯に入ったのだが、ここからが想像以上に長かった。そのうえ足元の石は苔むしており、木の根は危なく濡れていて、ぬかるんでいる場所も多いという悪条件なのである。滑って転ばないようにと気をつけようとするから余計に力が入る。なにせ最終的にこの日は14時間も歩いたのだから、後半はまさにひざが笑う状態だったと思う。何度か転びながら泣くような思いで歩き続けた。僕らの隊列はかなり長く伸びてしまい、最後に小屋に到着した者は暗い中を歩いてきたと思う。たいへんな山行になってしまったのだった。帰ってから4日目の今日になっても足が痛い。無理は禁物だと思い知らされた。
 しかしまあ、合併して多くの山小屋が市内に存することとなって以来、なんとかすべての山小屋を巡りたいと取り組んできたことは今回の山行で達成できた。おかげで市の最奥部までの距離感や黒部源流の素晴らしさを実感することができた。多くの山の仲間にも出会えた。つらいときもあるけれど山はやっぱりいいなあと思う。